第13回の報告
2024年4月6日(土)
伊藤 紘一さんのメッセージ
「永遠のいのち」 についてのメッセージ
1ー小川 吾朗
「永遠のいのち」 についてのメッセージ
2ー石垣 哲郎
「永遠のいのち」について、とりたてて質問を受けたことはありませんが、そもそも「いのちは永遠なもの」と考えます。
「いのち」は根源的なもので、「それがなければ生きていけない」とか「それがあってこそ生きられる」というようなものだと思います。
「永遠」というのは、この世では理解しがたいものであると思います。強いて言えば過去もなく、未来もなく、今、今、今・・・が終わりなく続くようなことだと思います。
永遠と言えば黙示録に出てくる「永遠」を思い出します。例えば黙示録4:10「永遠に生きておられる方を拝み」とか、黙示録22:5の「彼らは永遠に王である。」とあります。
黙示録の「永遠」とは「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とすべてのものから解き放たれた世界ではないかと思います。
いのちは閉じ込められたものではなく、一切のものから解放されて神と共に生きていることではないかと思います。いのちは一時的なものではなく、連環しているもので、どこまでもどこまでも永遠に続いているものと思います。まさに「神は、人の心に永遠を与えられた」(伝道者の書3:11)のだと思います。
いのちを与えるのは御霊なのであって、肉体のいのちは本当のいのちではない。キリストが語ったことば、御言葉が神の霊であり、またいのちだ(ヨハネ6:63)と考えます。
「永遠のいのち」 についてのメッセージ
3ー中野 正義
1.クリスチャンになったら、永遠のいのちを持てるようになる約束をいただくのでしょうか、という質問
が出されたことがあります。つまり私たちが以上にいる間は、永遠のいのちを持っていなくて、召され
てから永遠の後をいただくということなのかという質問でした。
2.ヨハネ17:2 父なる神と子なる神を知ることが、永遠のいのちだと言われています。
ここで知るとは、人格的に知る。交わることですね。イエス様と交わる生活は永遠のいのちであると言
われています。永遠なるお方と、今、地上にいる時から交わって生活する。地上の命が終わってもその
交わりは続いて、天においてひたすらその交わりの生活をしていく。
永遠なるお方と永遠の世界を共に歩む。これこそ永遠のいのちですね。このつながりがあるからこそ、
神の命に生きることが始まり、神の命に生き続けます。ここに平安があり、喜びがあり、力がありま
す。私はこの様に理解して、この様にお伝えしております。
「永遠のいのち」 についてのメッセージ
4ー松本 雅之
1. 「永遠の命」について、質問を受けることは少ない。しかし主に牧会の現場で関連する説明を求められる
ことが度々ある。
2.「永遠の命」については、非常に多くのみことばがある。
また共観福音書とヨハネ文書では説明の内容が異なる。たとえばヨハネ文書であれば次の言葉を用いる
事がある。
(例) ヨハネ14:6 イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。」
「永遠のいのち」 についてのメッセージ
5ー門谷 晥一
私たちが“永遠のいのち”を持てると信じれる聖書的根拠は何でしょうか。
キリスト者といえども罪の支払う報酬の故に、いつかは死を迎えます。
これは体から魂及び霊が離れることを意味します(伝道者12:7)。死後、彼の体は地上に残りますが、
魂及び霊は中間状態と言われるパラダイスに入ります(ルカ23:43)。彼はそこでキリストと交わること
が出来ますので、キリストと共にあるという“霊的ないのち”は継続します。しかしその“いのち”は体の無い状態であり、“完全ないのち” と呼ぶには不十分です。
キリストの再臨によって、地上に残された彼の体は、霊的な・朽ちない・栄光の体としてよみがえり、
パラダイスにある魂及び霊と結合し、魂及び霊だけではなく体をも有する完全な人として復活します。
つまりキリストの再臨による体の復活によって、“完全ないのち” を持つ人として、キリストと共に永遠
に生きることが出来るようになります。
それ故、完全な“永遠のいのち”を持つためには、死後における体の復活は非常に大切であり、以下のような6つの聖書的根拠を紹介するようにしています。
(1)キリストが復活された事実こそは、私たちの復活の明確な根拠です。
聖書はキリストの復活とキリスト者の復活とは別個の出来事ではなく、一つの関連性を持った出来事としてとらえています。
Ⅰコリント6:14「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます」
Ⅱコリント4:14「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に
御前に立たせてくださることを知っているからです。」
コロサイ1:18「御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の
者となられました。」
Ⅰコリント15:21~22「死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」
(2)キリストの復活の際に聖徒が復活した事実は、私たちの復活の大きな根拠です。
マタイ27:52〜53「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。」
(3)キリストによる御自身の復活の預言が成就したことは、キリストによる私たちの復活の預言が成就する根拠です。
キリストの御自身に関する復活の預言は、マタイ20:18〜19「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」を初め、
マタイ16:21、マタイ17:22~23、マタイ26:31〜32、マルコ8:31、マルコ9:31、マルコ14:28、ルカ9:22、ルカ18:31〜33等多数あります。
また、キリストの私たちの復活に関する預言は、ヨハネ6:39~40「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」を初め、ヨハネ5:28~29、ヨハネ6:44、ヨハネ6:54、ルカ20:35~36、マルコ12:25等多数あります。
キリストによる御自身の復活の預言が成就したことは、キリストによる私たちの復活の預言が成就することに明確な根拠を与えるものであり、私たちはキリストの預言通り復活することを確信できるのです。
(4)私たちの復活は贖いの中に含まれています。
ローマ8:23~24「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。」
キリストが私たちのために十字架上で死なれた時、彼は私たちの全人格のために、つまり霊と体の両方が贖われるために死なれたのです。ですからキリスト者は、霊だけではなく体も又、キリストのいのちという代価をもって買い取られたのです。それ故、キリスト者は体の復活を約束されているのです。
(5)私たちの復活を聖霊が保証しています。
エペソ4:30「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
ローマ8:11に「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。」
私たちの救いが完成し、体が贖われるこの世の終わりの日のために、聖霊がたしかにその保証として、また私たちが神のものである証拠として、私たちにそのしるしを与えていて下さいます。つまり、聖霊が私たちのうちに住んでいてくださるのです。その聖霊を通して、キリストを死から復活させたその同じ力が、私たちの中にも働かれるので、私たちは将来の体の復活を確信することができるのです。
(6)私たちの復活はキリストの再臨と審判の内に示されています。
Ⅰテサロニケ4:16~17「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
キリストは、もう一度天から下って来られますが、彼は体を離れた魂及び霊ではなく、体をもった人を裁くために帰ってこられます。すでにパラダイスで祝福を与えられた魂及び霊、或いは黄泉で刑罰の苦しみを与えられた魂及び霊を裁くために、なぜ彼が来られる必要があるでしょう。
このことからも、私たちはやがて体の復活があることを確信することができるのです。